いつもなら、この手の記事はMAに行くのですが、写真をどうしても使いたかったので、こちらにします。

8月の茨城会で宿を取ったので、翌日、茨城詣をすることに。前日に筑波海軍航空隊記念館を紹介してもらっていたのですが、アクセスに高速を使って1時間かかることが判明。午後に地元での予定があったので、帰宅ルート沿いの予科練平和記念館を再訪することにしました。

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ここは、3年前に偶然、訪れて、感銘を受けた場所でして。前回は時間がなかったので、今回はじっくり見ることができました。

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その外観がこちら。屋外展示スペースには、零戦21型の実物大模型があり、館を訪れたほとんどの人が、こちらも見ていました。

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平和記念館は写真撮影ができなかったのですが、当時の展示物が多数あり、予科練にいた17歳から19歳の少年兵の生活が、リアルに伝わります。外出のできる休日に、訪ねてきた家族や地元の人々と、食堂や交流倶楽部で過ごすわずかな時間が、どれほど楽しみだったことか・・・。

戦争後半になると、来襲する爆撃機や艦載機の標的となり、阿見自体も空襲で大きな損害を受けます。

そして、訓練期間を切り上げられた予科練出身者の多くが、理不尽きわまる特攻へ。出身者の8割が戦死という厳しい現実が、そこにあります。

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終戦間際に飛ばせる飛行機がなくなると、伏龍(自爆潜水服)や震洋(特攻モーターボート)への搭乗を命ぜられます。沖縄戦に投入された震洋の操縦士は、あの飛行服を身にまとって、最後の出撃をしたと伝えられています。大空を飛ぶことを夢見、厳しい訓練に耐えた先で、自爆モーターボートで出撃する心情・・・。

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館を出て、隣接する陸自の敷地内にある雄翔館へ。決して広くない館内ですが、多数の遺書・遺品が展示されており、開戦から終戦までの予科練戦没者の生きた証がそこにありました。

ミッドウェイ海戦で飛龍から敵空母攻撃に出撃した艦攻乗り。

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一式陸攻で山本長官とともに戦死した4名の出身者。

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乗組員の命を託した航法計器類。

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海軍大臣の弔辞。

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戦後40年後にパラオ島で見つかった零戦のプロペラ。

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激しい怒りを感じたのは、戦争終盤の戦死者数の増大です。あの激しいミッドウェイ海戦でも100名弱の戦死でしたが、マリアナ・レイテ海戦ではわずか一月で1000名を超え、特攻が常態化した沖縄戦では、月ごとに1500名以上が命を落としています。

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戦争指導者たちはマリアナの敗北の時点で、もはや「勝利」などはあり得ないことがわかっていたはずなのに・・・。その後も、「分別のある」大人たちが、「未来そのものである」若者たちを死に追いやり続ける理不尽さ。

両館をつなぐ公園におかれた、特効兵器回天の実物大模型。広い大空にあこがれた少年たちは、1mの暗く狭い空間で潜望鏡のわずかな視界から、何を見ていたのか・・・。

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気がつけば、2時間近くを過ごしていました。戦争の傷跡が風化し、生き残った人々もわずかになった今、次は家族を連れてきたいと、強く思いました。